何か もやもや した気持ちを抱えてネットを彷徨っていると、ふと文章が目に留まることがある。
引き込まれる書き出しに、軽妙で流れるような文体、それでいて論理的で理知的で印象的なその文章に、さっきまでの自分の考えが重なる。
そうだ、これだ。私の中にあった もやもや はこれなのだ。
私の言いたかったことが完全に言語化されている。
探していた宝物を見つけたような気になって、その在り処の描かれた地図を他の人に配って回る。
私の考えはここにあります。と。
自分のとりとめのない考えを理路整然と言語化されるのは気持ちが良い。それは、散らかった部屋が片付いたような居心地の良さがあるというだけでなく、子供っぽかったはずの自分の考えが、ただ好きか嫌いかというそれだけの話だったはずの気持ちが、実は正当な理屈に支えられていたことを確認できる。自分の中にあったのは単なる感情論ではなかった。自分では上手く説明できなかっただけで、それは尊く崇高なものだったのだ。
いやしかし。少し立ち止まって考える必要がある。
それは本当にあなたの考えていたことだったのかと。
人間の認知や記憶というのはとても脆いものだと思う。それは「若い婦人」にも「老婆」にも見える錯視のようなもので、一度それに気づいてしまうと、そちらに意識が引きずられてしまい、もはやそれ以外に見えなくなってしまったりする。遠い昔の記憶が、自分の都合の良いように歪められているというのも良くある話だ。他人のアイディアを聞いたときに、「そう言えば自分も昔同じことを考えていたな」なんて思ってメモを見返すと、肝心なところが違っていたりする。「そのアイディアを思いついたことがある」ことと、「そのアイディアをすんなり受け入れる下地がある」こととは全く別物のはずなのだが、人は良くこれらを混同する。「そんなことなら自分でも思いつけそうだ」程度の感想を「自分も同じことを考えていた」と表現する人がいても私は何も驚かない。
ともかくそういった訳で、他の人の文章と自分の考えを重ねる際には注意が必要だ。その境界線は容易く崩れ去る。
見つけた文章に納得できるのであれば、それはそれで良いのかもしれないが、怖いのは、自分の元の考えを思い出せなくなることだ。どうしてもその素晴らしい言語化に引きずられてしまう。
世の中には文章を書くのが上手い人間がいる。気をつけた方が良い。彼らは決してあなたの気持ちを書いている訳ではない。
考えや気持ちというのは、脆く儚いものだからこそ、大切にしてほしいと思う。結局のところそれが単なる好き嫌いであっても良いのだ。
思いついたそのときに、できる限りの力でそれを書き残した方がいい。上手く言語化できなくても良い。
そして、良く似た小綺麗な文章を見つけたら、自分のメモと見比べてみる。自分の作文能力に落ち込む必要はない。
良くできたその文章に自分のメモを重ねてみる。なるほど、言いたいことはよく似ているが、ところどころに違いがある。歪に飛び出たその言葉の端々に、あなたの大切な もやもや がまだ宿っている。