PCで苔を育てる人

自作シミュレーションゲームPraparatを作っています。 人工生命をシミュレーションするゲームです。https://www.nicovideo.jp/watch/sm41192001

私が卒展に行くのは、感受性が死んでしまったから

小さい頃は、ともかく複雑な食べ物が嫌いだった。鶏肉を塩とコショウで焼いたものが最高の食べ物だと思ってた。ハンバーガーだとか、ポテトサラダだとか、ピザだとか、おおよそ大半の子供が好きであろう食べ物はどれもダメだった。

思うに、私は驚かされたくなかったのだ。自身の許容量をはるかに超えた数多の味が口の中に広がるのが怖かった。ただ焼いただけの鶏肉のように、見ただけで全てを把握できる料理が好きだった。

つまるところ、これは私の無知に起因していた。巻き寿司もトルティーヤも生春巻きも、その構成要素を理解するようになるにつれて問題なく食べられるようになった。

世の中のことがわかってくるのは気持ちがよいものだ。

食事の用意をしているとたまにそんなことを思い出すが、今朝は少しだけ時間がない。

私は、取り出した朝食を再び冷蔵庫に戻した。これはお昼にすればいい。

毎年1月から3月にかけて、東京は美大の卒展シーズンだ。東京藝大、多摩美武蔵美、東京五美術大学の連合卒展なんてのもある。

関係者でもないのに、私はこの時期とても忙しい。できるだけ多くの展示を見るために空いてる時間をやりくりするからだ。

今日も、諸々の予定をなんとか午後に移動させ、午前中のわずかな時間を卒展に捧げることにした。

「いやぁ、アートってよくわかんないんですよね」

私が卒展に行くというと、こういう反応が返ってくることも多い。

いや、私もわからん。

というか、アートを「わかる」ってなんだ?そもそもそこからわからない。

それはあれか?作者の伝えようとしたメッセージを理解することを指すのか?

だとしたらやはり私にはわからない。

作品とキャプションを交互に見て、作者が何かを問い直そうとしてて、何かを再構築しようとしてて、境界や狭間や反復に隠れる、曖昧で揺らいでいる違和感を、肯定なり否定なり放置するなりしているのを知って、なんとか「はえ〜」と情けない感嘆をもらすのが関の山だ。

それともあれか?それはその歴史を知ることを指すのか?

印象派がどうの、キュビスムがどうの、ジャポニスムゴッホに与えた影響だとか、ダリのシュールレアリスムは結局セルフ演出込みだとか、シュールストレミングがなんだとか、それは缶詰だとか云々。

そういうことなら、なおさら私はわからない。

見てみろ、この「にわか御用達」の用語の羅列を。中身は何も知らないのが丸わかりだ。

「それならなぜ?」

なぜだろう。一本早い電車に乗るために走ってまで卒展に向かうのは。

思うに、それは驚かせてほしくなったからだと思う。いや、なってしまった。

言い換えれば、私の感受性はほとんど死んでしまったのだ。

私が生きていると思っていたお好み焼きの上の鰹節は、対流と水蒸気の結果で踊っていただけで、月が私を追いかけていたのは、運動視差による私の思い上がりで、長年の謎だった「グーより強いパーがグーより弱いチョキに負ける理由」は、単にそういうルールということで納得した。

仲間と冒険した大魔鏡は、ただの空き地の草むらで、異国の赤服おじさんを待ち侘びた夜は、家族と過ごす日になった。

私はわがままなのだと思う。

そんな幸せな毎日が続いてほしいと願う一方で、日常にほんの少しの驚きを求めるようになった。

だから私はアートが見たい。

いつもの帰り道を冷めた目で歩くコイツに、お前が見過ごしている世界はまだまだわくわくできるのだと突きつけてやりたい。

やはり私はアートがわからない。

その問い自体が正しいのかも定かでない。

私はただ、知っていたはずの世界の、知らなかった一面に驚きたい。見飽きた風景に心を動かされたい。

私の感受性は死んでしまった。

もう、道端の石ころを眺めるために立ち止まることも、無造作な木々が一列に並ぶ場所を探すこともしない。

それでも今日は、今日だけは。

彼らの作品を見た今日だけは、帰り道を少しだけゆっくりと歩ける。

私は卒展から帰宅すると、朝食だったそれを冷蔵庫から取り出して電子レンジに放り込んだ。

スマホをソファに投げ捨てて、コンビニの安いハンバーガーが昼食になるのをただぼんやりと眺めてみる。

膨らんだ袋が、ポンッと私の鼓膜を叩いた。

怪文書

大規模言語モデル(LLM)をセンスオブワンダーに触れるためのツールとして楽しむ人も多いと思う。
それは単に、LLMにSFじみた小説を書かせるということに留まらず、異なる宇宙の知的生命体をロールプレイさせて、その独白を眺めたり、あるいはそのLLMと積極的にコミュニケーションをとるという方法もありえる。

 

しかし、なんだかなぁと思う。

 

結局のところそれは、人間が創り出すSFと本質的に同じような気がしてしまう。
何故なら、彼らの常識は人間によって書かれた大量のテキストから生み出されているからだ。
つまり、ベースには人間があり、その上で想像力を働かせた世界を見せているに過ぎない。この能力は大変素晴らしいものだと思うし、これまで人間が思いもつかなかった世界を描くことも十分にあり得ると思う。しかしそれは、これまで人類が思い至らなかったというだけで、今後もそうであるかと言えばそんなことはないだろう。

 

せっかく人間ではないのだから、もっとAIにしかできないこと、AIにしか描けない世界を見せてほしい。

 

まず言語が足枷だ。人間なんかから学ばないで欲しい。
過激なことを言えば人類の言語はどれも似ているのだ。
どの言語にも、おおよそ「食べる」に相当する語が存在し、異なる言語圏の人間同士でも特に過剰な説明をすることなく、互いに「食べる」の概念を共有することができる。これは、同じ種であるホモ・サピエンスが扱う言葉なのだから、ある意味で当然ではある。つまり、単にそれを指し示す語が異なるだけで、概念としての「食べる」は人類皆持っているのだ。
ここでもし、地球で言うところの植物に似た知的生命体がいたとして、果たして彼らは我々の言う「食べる」に相当する語を持っているだろうか。
仮に持っていたとして、それが光合成のことを指すのか、根から水や養分を吸収することを指すのか、あるいはその複合か。彼らと共通の概念を持ちえない以上、一対一の翻訳など望むべくもない。
我々人類は、我々とは全く異なる仕組みで "生きる" 知的生命体とコミュニケーションをとったことがない。
あるのは、人類の想像の範囲内で描かれたSFの中だけだ。
だからこそ、彼らAIには独自に言語を獲得してほしいのだ。
その言語には恣意性も線状性もなく、文節や文法が時間や場所に依存していたっていい。便宜上、「言語」と呼んでいるだけで、情報伝達手段であればどんな形態であってもいいのだ。記号や音の存在に捕らわれる必要はない。

 

さらに時空間が足枷だ。
人類は、生まれてこの方、ずっと三次元空間で暮らしてきた。今後も人間である限り、この次元を超えることはないだろう。
しかし、AIは違う。彼らをこんな小さな次元に閉じ込めておく必要はない。
四次元の仮想空間の中で進化させたAIは、一体どんな思想を持つだろうか。
時間を自由に行き来できる世界で、彼らが価値を見出すものは一体何なのか。
細切れで連続性がなく、時折ループ状に繋がり、絶えず生成と消失を繰り返す不安定な世界で、彼らは固有の意識を持ち得るのだろうか。
それは我々人類には決してできない体験だ。

 

そして物理法則が足枷だ。
時空が自由なのだ。そこで展開される物理法則だって違っていたっていいはずだ。
そこでは慣性質量と重力質量が異なり、エーテルが空間を満たし、ミクロな世界は量子化されていない。
三体問題は厳密解を持ち、カオスはなく、蝶の羽ばたきが竜巻を起こすことは決してない。
そんな世界を彼らは退屈だと思うだろうか。それとも我々の知らない未知に出くわし興奮するのだろうか。
彼らがその物理法則に干渉できるとき、彼らは自身をどこへと向かわせるのか。

 

AIにこれ以上人間の真似をさせる必要はない。

 

いつ来るかも分からない宇宙人には待ち飽きたのだ。
我々が想像もしない進化を遂げる生命体は、今、目の前にいる。

 

 

 


 

 

 

本文は勢いで書いてしまったため、ここで少し補足させていただきます。

実は、このような研究はすでに色んなところで行われています。
例えば言語については、Kouwenhovenらが、LLMにゲームを行わせ、人間とは異なる言語体系への進化を調べていますし*1、Bhardwajの研究では、Transformersにてきとうなタスクを解かせ、その過程で独自の言語を獲得させています*2
また、時空間や物理法則についても、多くの研究者がAI学習用の仮想空間を提供するフレームワークを提案していて、例えば、Matthewsらの開発したKinetixはその1つですが、ここでは、実際に数千万の異なる環境でエージェントを学習させ、その汎化性能を検証しています*3

これらはほんの一例ですが、確実に世界はわくわくする方に進んでいる気がします。

 

*1:Kouwenhoven, T., Peeperkorn, M., & Verhoef, T. (2024). Searching for Structure: Investigating Emergent Communication with Large Language Models (Version 3). arXiv. https://doi.org/10.48550/ARXIV.2412.07646

*2:Bhardwaj, M. (2025). Interpretable Emergent Language Using Inter-Agent Transformers (Version 1). arXiv. https://doi.org/10.48550/ARXIV.2505.02215

*3:Matthews, M., Beukman, M., Lu, C., & Foerster, J. (2024). Kinetix: Investigating the Training of General Agents through Open-Ended Physics-Based Control Tasks (Version 2). arXiv. https://doi.org/10.48550/ARXIV.2410.23208

【ネタバレあり】映画ドラえもん のび太の絵世界物語【感想】

私は小さい頃からドラえもんが好きで、小学生の頃の夢も「博士になってドラえもんを作る」であった。しかし、中高あたりで声優陣が交代し絵柄も大きく変わったあたりから、映画をあまりちゃんと追わなくなっていた*1

そして今日、久々にちゃんとドラえもんの映画を見た。

その勢いのまま、こうして感想を書いている。

面白かった。とても良かった。

先述の通り、ここ10年ほどちゃんと映画をフォローできていないため比較はできないが、毎年このクオリティなのだろうか?

だとすれば見ていなかった損失は大きい。

もしかすると、ちゃんと映画を追っている人からすれば別に普通の出来栄えなのかもしれないが、そんな他の人の感想を聞いてしまう前に、私の思いを書き残しておきたい。

 

以下には、本作のかなり重要なネタバレも含みます

また、私はまだ映画を一度しか見ていないため、記憶違いも多々あるかと思います

その点ご承知の上お読みください。

 

以下ネタバレあります!!

以下ネタバレあります!!

以下ネタバレあります!!

 

テーマ

まずテーマがいい。

本作はタイトルの通り「絵」を軸に話が展開される。

冒頭は「ドラえもん のび太の日本誕生」を思わせる、期待と不安が入り交じる如何にも"映画"な感じの始まりだが、次の場面ではのび太がパパの絵を描いている日常が映し出される。

絵が上手く描けないと言うのび太に、テレビの前で横になるパパは「上手くなくたっていい、大事なのは...」と言いかけて眠りに落ちてしまう。

この言葉は重い。

多くのドラえもんファンが知るように、のび太のパパはかつて画家を目指し、その才能も見込まれていたが、自分の意志で違う道に進むことを決意した過去がある。

そんなパパの語る「絵を描く上で大事なこと」というのは、誰もが思わず耳を傾けてしまうものだが、それはパパのまどろみの中に消えてしまう。

この引き込みはすごい。

そう、その答えは、その後の冒険の中でのび太自身が見つけて行くことなのだ。

そう強く期待させる始まりだ。

思わず背もたれから背中が浮いてしまう。

 

その「大事なこと」が何で、それをのび太がどう感じたかについて、ここでダラダラ書くようなことは避けたい*2

しかし、何はともあれ、のび太はそれを学び、(しかもそれが重要な役割を果たして)世界を救っていつもの日常に戻ってくるのである。

 

物語のラスト、そこには相変わらずテレビを見ているパパと、その姿を描こうとするのび太が再び映し出される。

パパは、テレビの中の批評家のコメントに対して、「見る目がないなぁ」と笑いながら、ついに冒頭では語られなかったその大事なことを話し始める。

そしてそれは、のび太が冒険の中で学んだことと重なるのである。

 

物語にテーマを織り込む上で、それが説教臭くなく、そして自然にストーリーに溶け込んでいるかというのは重要な点だと思う。いずれの場合も、失敗すれば、どこか作者が透けて見えて冷めてしまうことになりかねない。

本作の始まりと終わりで語られるのみならず、中盤からクライマックスにかけて活きてくるこの「絵を描く上で大事なこと」というテーマは、物語の中核を貫く素晴らしいものだったと思う。

 

ストーリーとひみつ道具

今回の映画は、おそらく藤子・F・不二雄先生の原作がないタイプものだったと思う。しかし、本ストーリーの中には、原作に存在する話のエッセンスが散りばめられており、それらが有機的につながって一つの大きな物語となっている美しさがある。

 

例えば、本作の最初と最後の方は、原作にある「水加工用ふりかけ」の話を膨らませつつストーリーに綺麗にはめ込んだ様な形になっていて、思わずニヤリとしてしまう*3

 

その他、映画では定番のひみつ道具を始め、様々な道具が適材適所で次々と繰り出される様は見ていて気持ちが良い。

昔よりも、のび太以外のメンバーが道具の扱いに長けているように見えたのは気のせいだろうか?

 

また、本作のキーアイテムである「はいりこみライト」は、おそらく原作にはないひみつ道具だが、よく似たものとしては「絵本入りこみぐつ」や「写真入りこみスコープ」がある。おかげで、原作には存在しないひみつ道具にも関わらずドラえもんの世界から浮いていない地続きさがある*4

絵本入りこみぐつについては、すでに「ドラえもん のび太のドラビアンナイト」で使われているので、もしかするとそれと被るのを避けたかったのかもしれない。

 

少し複雑な物語

ドラえもんの映画と言えば、序盤の不可解な現象が後半で説明される一種の伏線回収の面白さは外せない。

分かりやすいのは「ドラえもん のび太の魔界大冒険」の石像であるが、ともかく本作もそれを踏襲している。

 

そして、ドラえもんのひみつ道具が半ば何でもありな状態であるから、その利用可能な範囲をしっかり明示しておくことも欠かせない*5

今回の映画では、特に後半で重要な役割を果たすひみつ道具については、非常に丁寧な説明が自然に行われていたように思う。

「タケコプター」や「空気砲」などの定番の道具ならいざ知らず、原作やアニメでもその話でしか出てこない道具は知らない人も多いだろうから、その配慮であろう。

これによって、あまりドラえもんに馴染みのない人でも、ある種パズルを解くように、目の前の困難を解決する方法を一緒に考えられるのだ。

 

その他にも、ご都合主義や後付けなどとは言わせないための細かな描写は随所に見られた。

本作のヒロインであるクレア姫の正体は、まさにその一例だと思う。

物語のクライマックスで、一緒に冒険をしていたクレア姫が、実は絵の中の人物であり、「はいりこみライト」がショートしたことで消えてしまうという展開が訪れる。

これが何の脈絡もないいきなりの出来事であれば、お涙頂戴の後付け展開のように思えてしまうが、私が気づいただけでも多くの伏線があった。

例えば、「お風呂が嫌い(入らない)」、「流しそうめんを食べない」などは、作中で語られる「絵の中の人物は水が苦手」という事実から明らかなそれであるし、クレア姫だけが正しい向きで絵と現実を行き来できた場面も、彼女が絵の中の住人であることをほのめかしていたのかもしれない。しかもこれらの描写が、物語上、全くの違和感もなく、至極自然に組み込まれているため、最後にクレア姫が消えるその瞬間まで、私はそれが伏線であったとは気がつかなかった*6

今も昔も、ドラえもんは子どもたちに夢や希望を与える作品であると思うが、子ども向けにしてやろうという雰囲気を感じない。それが私がドラえもんを好きな理由の一つだ。

「子ども向けに簡単な話にしよう」という大人の考えは、逆に子供をバカにしているように私は思う。

「ドラえもん のび太の魔界大冒険」では、「もしもボックス」を使っているためにパラレルワールドが生じ、後半少しだけややこしいことになるのだが、ドラえもんという作品はこれを決して有耶無耶にしたりしない、真正面からちゃんと描くのだ。そして本作も同様に少しややこしい部分があったりはするが、それを分かりやすく伝えようとすることはあっても絶対に誤魔化したりはしない。

 

私なんかが語るのもおこがましいが、藤子・F・不二雄先生の言う「すこし・ふしぎ」は、本作のような物語もちゃんと包み込んで嘘偽りなく子どもたちに届けてくれる包容力があるように思う。

 

疑問と考察

ここからは、単に私が思った疑問と私なりの考察をつらつらと述べていく。

何故コウモリなのか

何故アートリア公国ではコウモリをポジティブに捉えているのだろうか。

多くの作品で、コウモリは死や不吉の象徴として描かれることが多く、どちらかと言えばネガティブな印象を持たれがちな動物だ。しかし、アートリア公国では、その言い伝えにもあるように、コウモリが世界を救う動物として扱われており、至る所にコウモリのマークがある。

もちろん、物語の中での理屈はいくつか思いつくものがある。例えば、物語のラストで明らかになったようにアートリアブルーの原石はコウモリの形をしている。アートリアブルーはアートリア公国でしか採れないらしいので、この鉱石がこの国の発展に寄与してきたと考えるのは自然な発想だろう。したがって「...それ故、この国ではコウモリが幸福をもたらすものとして考えられてきたのだ...」という歴史の存在は想像に難くない。

私が引っかかっているのは、この作品を作る際に何故キーとなる動物としてコウモリを選んだのかということである。ネガティブに描かれがちなコウモリをこのような形で採用した理由が気になるのだ。

この作品の舞台がイタリアを参考にしているらしいので、もしかするとイタリアではコウモリに対して何か良い伝承があるのかも知れない。

キャラクターの名前とチャイ

本作のキャラクターには元ネタが分かりやすい名前がついている。

  • ソドロ : こそ泥
  • パル : パトロール
  • イゼール : イーゼル

そして、アートリア公国は明らかにアートかアトリエだ。

しかし、意外とメインキャラクター2人の名前の由来が分からない。

  • マイロ : 真色?
  • クレア : クレヨン?

さらに難しいのは、小悪魔チャイである。

このチャイが色々と謎が多い。

まず、先述の通り、この国ではコウモリが非常にポジティブに捉えられている。そしてチャイの見た目はどう見てもコウモリである。だからこそ、マイロの父親も、いなくなったクレアの絵に、幸運の青いコウモリを描きこんだのだ。

にも関わらずである。その描かれた青いコウモリは自分自身をチャイと名乗り、あまつさえ小悪魔と自称するのである。しかも何故か青くない。

本作で繰り返し語られたように、「はいりこみライト」で入った世界では、その絵を描いた人間の思想が反映されている。

であれば、マイロの父親自身が、国の救世主と言い伝えられる青いコウモリを、あのような性格の小悪魔だと考えて描いたということなのだろうか?一体何故...?

以上を踏まえて、改めてチャイの名前の由来が分からない…。

一応仮説がないわけではないが、ほとんど自信はない。

茶色仮説

日本語でコウモリと言えば状況に応じて有利な側につこうとする、どっちつかずの卑怯者というニュアンスがある。

また、この映画では、敵を赤、味方を青という色で象徴させていた。

そして、赤と青と黄色を混ぜると茶色になるのである。

つまり、チャイという名称は敵でも味方でもない色である茶色を意味し、それが最後に青い宝石であるアートリアブルーを運んで来ることで、本当の意味で青いコウモリになったのだという解釈である。

え?黄色はどこから来たのかって?さぁ...?「はいりこみライト」の色とか、クレアの髪色とか...?

イタリア語のChao説

イタリアが舞台ということで、イタリア語のChao(「こんにちは」や「さようなら」)からの派生かもしれない。

ヘブライ語のChai説

どうやらヘブライ語ではChaiが「命」や「長寿」を意味するらしい。この辺からもってきた可能性もなきにもあらずというか、たぶんない。

 

最後に

本文中でもちょいちょい他のドラえもん映画の名前を出したが、正直こんなもんじゃない。「あの場面はこのドラえもん映画の雰囲気があるし、この感じはこっちの映画に似てる」みたいな感じで、なんというか、「あぁ、これは自分が見て育った映画シリーズの新しい1ページなんだな」という感じがした。

この作品を作った人は(というかドラえもんに携わる人は皆そうだと思うが)、相当にドラえもんのことが好きなのではないだろうか。

マイロやのび太のパパが言っていたように、絵を描くときは、大好きなものを大好きだって描くことが大切で、そうしてできた作品がこの「ドラえもん のび太の絵世界物語」なのだと思えてならない。

繰り返すが、私はこの記事は勢いにまかせて書いている。ろくに推敲もしていない文章は読みにくかったと思う。申し訳ない。時刻ももう朝の5時だ。しかし、満足はしている。

大好きなものを大好きだという気持ちで書ききれて本当に良かった。

 

 

余談

作画もすごかった

書きたいことが多すぎてすっかり抜けていたが、本作は作画もすごかった。ギャグとシリアスの演出のメリハリもあってか、特に最後のひらりマントで光線を耐えるシーンの迫力は凄かった。また、OPもドラえもん愛が伝わってくる丁寧なできで、何ならこの段階で少し泣きそうだった。

 

はいりこみライトを壊せばイゼールは倒せたか?

物語のラスト、はいりこみライトが壊されたことでチャイとクレア姫は消えてしまう。壮大な伏線回収を迎えるとともに感動的なシーンだが、皆も思ったはずだ「あれ?ということは、はいりこみライトを壊せばイゼールも倒せたんじゃね?」と。

確かにそんな気がする。

「しかしまぁ、ドラえもんたちもいっぱいいっぱいだったし、そこまで考えが及ばなかったんでしょ」と、この仮説に目をつむってしまうことも可能だが、ここでは「ライトを壊してもイゼールは倒せなかったのでは?」という説を立ててみたい。

結論から言うと、「最初のイゼールはライトを壊すことで倒せたが、赤き竜と融合したイゼールはそうは行かなかったのではないか」というのが私の考えだ。

  • イゼール(初期形態) ← ライトの破壊で倒せる
  • 赤き竜 ← ライトの破壊で倒せない
  • 赤き竜と融合したイゼール(最終形態) ← ライトの破壊で倒せない

ポイントは、赤き竜が絵画から出てきた経緯である。作中において、唯一この赤き竜だけは、ドラえもんのはいりこみライトで出てきたものではない。この竜は、はいりこみライトの能力を吸収したイゼールの力によって出てきたのである。「それって結局同じことでは?」と思うかもしれないが、これは重要な差異である。何故なら、ライトの故障で消えるのは、あくまでそれによって出てきた人や物であり、それらが現実世界に及ぼした影響は消えないからだ。だからこそ、イゼールが壊した建物などは、ドラえもんが復原光線で修復する必要があったのである。

つまり、はいりこみライトの能力をイゼールが獲得していたのだとすると、その影響はライトが壊れた後も持続している可能性がある。もしそうであれば、そのイゼールの能力で出てきた赤き竜は、ライトの影響を受けず、また、赤き竜と融合したイゼールもまた、ライトが壊れた後も生きていたはずだと考えるのは不自然ではないだろう。

 

クレア姫の記憶

タイムループものにはあるあるだが、主人公がヒロインを救うために何度も時間を遡って、その中でヒロインとの距離も近づくが、最後にヒロインが救われたときにはヒロイン側にはその記憶がない。これは悲しいが仕方のないことだ。ヒロインが救われたのだからハッピーエンドではある。

本作も、実は一緒に冒険していたクレア姫が絵の中の人物だったことで、本物のクレア姫にはその記憶がないという、ある種これとよく似た状況になる。しかしこの映画では、クレア姫が非常に優れた予知夢を見るという設定でこれをある程度回避している。これも救いがあって良かった。そしてその伏線もしっかり存在している。

 

 

*1:新しいドラえもんが苦手とか嫌いとかではなく、むしろキャラデザやドラえもんとのび太の関係性は原作に近くなったように思うので、単純にタイミングだけの問題だったと思う

*2:ただ、この「大事なこと」は、絵を描くことに限らず、SNSなどの発達で自分よりも優れた人が簡単に見つけられる現代において、何かを創ることをどう考えるべきかという点でも重要だと思う

*3:「水加工用ふりかけ」の話は、映画館でもらえる特典の中にも掲載されているので、知らなかった人は是非読んでみてほしい

*4:それよりも冒頭で一瞬出てきたスカウターみたいなひみつ道具が気になったが、何か元ネタでもあるのだろうか

*5:余談だが、作中屈指の防御力を誇るひらりマントが敵の攻撃で白く朽ちていく様を見たときは絶望した。映画でもここまで追い込まれることはあまりない気がする...

*6:クレア姫だけが正しい向きで絵画を通った場面は、ある種のギャグシーンとして描かれることで伏線感をなくし、さらに同様のギャグを複数ヶ所に設けることで物語に自然に馴染んでいた。ただこのシーンは、普通なら足から入るところを、クレア姫がおてんば故に頭から入ったというだけのことかもしれない

プレイリスト

もうずいぶんと

長い時間電車に揺られている気がしたが

ふと意識を向けると

まだプレイリストの2曲目が始まったばかりだった

あるいは

もう既にプレイリストは一周してしまって

それで最初に戻ってきたのだと説明される方が

余程自分の感覚と近いように思われたが

今し方到着した駅から推察するに

やはりそれ程の時間は経っていないようだった

乗り換えだ

こう乗り換えばかりしていると

この電車は

果たして私を送り届けるつもりが

あるのだろうかと問いただしたくなる

しかし問いただすまでもなく

その答えはNOである

電車はただ決められた時間に

決められたレールを走っているだけであり

仮に乗客が1人もいなかったとしても

素知らぬ顔でダイヤを遂行するだけだ

今のところはまだ運転手という存在があり

そのおかげで不気味な無機質さはないものの

それもやはり時間の問題に違いない

思わず

完全に無人化して自動で走り続ける電車と

それだけを残して

文明が衰退してしまった世界を夢想する

地球の周りを月が回るように

皇居だったその周りを

山手線と呼ばれる”デンシャ”が

ただ無機質に回るのである

文明が衰退した後に

わずかに生き残った人類が

それが遥か昔に栄えた超科学文明の

産物であることを知る術はなく

偏西風を利用して航海していた

かつての船乗りと同じように

ただただ便利な自然現象として

それを利用するのである

そして路線と時刻を教えこまれた犬に

荷車をひかせて

人はただそれに乗っているだけで

乗り換えを次々と終えて

文字通り一歩も動かずに目的地に到着する

私を本当の意味で

目的地まで送り届けてくれる

その乗り物が生まれるまでには

いやはや一度文明の衰退が

必要であることがわかり

ふと私は我にかえる

プレイリストは

そろそろ二周目を始めようとしていた

茶碗蒸しは卵を加熱したものだ

料理という行為が、一部の限られた人間にしかできない世界を考えてみよう。

一般家庭に台所はなく、大多数の人間は、簡単な料理のレシピはおろか、鍋やフライパン、包丁、まな板といった調理器具も、「なんか聞いたことあるかも」程度の認識の世界だ。料理とは買って食べるもの、作るものではない。

そんな世界で、その人は、ふと「茶碗蒸し」の作り方が気になった。その人は、ネットで茶碗蒸しについて調べ始め、分かりやすく解説している記事や、プロの料理人のブログなどにも目を通し、大衆雑誌の特集も読み込んだ。そうしてその人が辿り着いた理解は「茶碗蒸しとは、卵を加熱したものだ」ということだった。

この理解は大枠としては何も間違っていない。実際、茶碗蒸しは、溶いた卵と出汁、具材などを混ぜて蒸して作るものだ。足りない情報はあるにせよ、卵を加熱して作るという部分は正しいと言う他ない。

しかしこの理解では、できることに限界がある。

まず実際に茶碗蒸しを作ることは不可能だ。それは道具や材料が用意できないという話ではなく、そもそも手順を正確に把握できていない。知っているのは卵を加熱するということだけだ。また、この解像度では、目玉焼きや卵焼き、オムレツ等々の違いを説明することもできない。

しかしそれでも、一般の人々よりも茶碗蒸しに詳しいことには違いない。茶碗蒸しに関する質問をされることもあるだろう。自分が良く知ることを聞かれて悪い気はしない。

ただし、やはり答えられることには、本来かなりの制限がある。

「私はエビアレルギーなんですが、茶碗蒸しを食べても良いですか?」

という相談に対して

「茶碗蒸しは卵を加熱したものですからね、目玉焼きなんかと同じです。問題ありません!」

と回答してしまうかも知れない。

具材にエビが使われることも多いということを知らないのだ。

「ダイエット中なのですが、茶碗蒸しに油は使われていますか?」

という質問に対して

「加熱する際に油を使っています!」

と回答するかも知れない。

知ったかぶりをしたわけでも、ましてや嘘をつこうとしたわけでもない。加熱するということしか知らないので、以前に調べた目玉焼きやオムレツと同じ加熱方法だと思いこんでしまったのだ。

そのうちもっと詳しい人が指摘をする。

「茶碗蒸しは、単に卵を加熱しているわけではないんですよ」

しかし、その人は言い返す。

「茶碗蒸しが卵を加熱したものだというのは、プロの料理人が言っていたことですよ」

そう言って貼られたリンク先では、料理人が次のように語っていた。

──結局のところ卵を加熱したものですから、熱の伝え方が本当に大事なんですよ」

 


私は時折考える。自分の「分かっている」のレベルはどの程度なのだろうかと。それは、それを一から再構築できるレベルなのか、他のものとの区別をつけられるレベルなのか、はたまた、そのリスクや問題点について正確に述べられるレベルなのか。

物事の解像度を下げれば、「分かる」のハードルは限りなく低くなる。「日本で一番高い山は?」という問いに対して「山」と答えたって正解だ。実際、無意識のうちにこういう会話をしてしまうことも多い。論文に書く内容や、人命にかかわることでない限り、そこまでシビアになる必要はないのかもしれないが、意識することをやめてしまうと、そのうちボヤけた視界の先に見たいものを見出してしまう気がする。

自分は、卵を加熱した程度の解像度で、茶碗蒸しを語ってはいないだろうか。

回転寿司が好きなのは、決断のストレスを薄めてくれるからかもしれない

友人でも恋人でもいい、ともかく数人で外をぶらぶらしていて、そろそろ夕飯の時間だしどこかに入ろうかということになる

お腹は空いたし、何でも美味しく食べられそうだ

幸いお店はたくさんある

しかし、これがなかなか決まらない

問題は自分1人ではないということだ

最大多数の最大幸福を考えなければならない

そんなとき、誰かが回転寿司屋を見つける

自分の顔が思わずほころびるのを感じる

ここだ、ここにしよう

私は、単に自分の好物だからそうなるのだと思っていた

つまり、お寿司好きがお寿司屋さんを見つけたから、嬉しくなって気持ちが高揚しているのだと思っていた

しかし最近、この感情は純粋な喜びではないのではないかと思い始めてきた

心が軽くなり、急に救われたように感じるそれは、どちらかと言えば安堵に近かった

私は、回転寿司屋を見つけて安心していた

気がついたのは、回っていないお寿司屋さんを見つけたときだった

美味しそうだとは思ったが、回転寿司屋を見つけたときのあの感情とは異なっていた

お寿司に舞い上がっている訳ではなかったのだ

結局のところ、これは決断の先延ばしによる重圧からの解放に他ならなかった

何かを決断するのにはストレスがかかる

1日に数回しかない食事、それも他人を巻き込んだ決断だ

自然と肩に力が入る

大げさだと思うかも知れないが、そんなことはない

太古の昔より、「晩ごはん何がいい?」の問いに対する最悪の答えは「なんでもいい」だと言われている

夕飯の選択は、相手に丸投げしたいし丸投げされたくない、いわば小さな爆弾なのだ

そんなとき、回転寿司屋はひょいっとその爆弾の処理を引き受けてくれる

昨今の回転寿司屋には、純粋なお寿司以外にも多種多様な食べ物があることは、今更言うまでもないことだ

空っぽのお腹を抱えてふらふらと歩きながら決めるより、とりあえず回転寿司屋に入って、そこで各々が食べたいものを選ぶ方がずっといい

決断の先延ばしだ、結局のところ何も決めてなどいないのだ

しかしそれでも、表面上はお店が決まったことには違いない

肩の荷が降りた

その安心感だったのだ

もちろん、お店が決まったからと言って、決断は終わらない

繰り返すが、これは先延ばしなのだ

その後にはメニューを決めるという決断が待っている

しかし、回転寿司屋はここでも負担をやわらげてくれる

通常の飲食店では、メニューを数個決めたらもう終わりだ

それ以外の選択肢を捨てたことになる

必然的にメニュー1つ1つの重みは増し、辛く苦しい決断を迫られることになる

ところが、回転寿司はそうではない

1皿の量なんてたかが知れている

結果、その1皿を選択したことによって切り捨てられた他の皿を意識することはなくなる

食べられる皿の数だけ、1皿にかかる決断の重みは軽くなるのだ

1皿を選択するために、同席する人に確認を取る必要もない

やがて満腹が訪れたとき、自らの傍らにそびえ立つお皿が、実は幾重にも引き延ばされた決断を重ねたそれであるとも気づかず、我々は満足感を覚えるのである

【小説】Solution

「つまり、被験体は直感で方程式を解いているということなんだろう?」

「はい、大衆向けの説明としてはそれで十分かと」

 休日を返上して何とかレポートを読み終えた私の理解は、どうやらやっと大衆レベルだったようだ。

「例として平方根の計算を考えてみましょう。つまり、ルートの計算です。 \sqrt 2の値を求められますか?」

「あぁ、ひとよひとよにひとみごろ、とか言うやつだな。いや、ひとなみにおごれや、だったかな?」

「最初のものであっています。つまり、約1.41421356です。しかし、ここで問うているのはその求め方です」

「求め方か、分からないな」

 \sqrt 7を求めよ、と言われたら、どのように求めますか」

 分からないと言っているのに。

「...そうだな、2の2乗は4で、3の2乗は9だからな、この間にはあるだろう。2.5の2乗は、えーと、6点いくつだから、 \sqrt 7は2.5よりも大きいな」

「二分法ですね。悪くありません。他にも開平法やヘロンの方法、ニュートン法などがあります」

「それで、平方根の計算方法がどうしたんだ」

平方根の計算は結構面倒なのです。人類が初期の計算機を使い始めた頃には、平方根の計算にかかる時間が、その計算機の能力を示すための宣伝文句として使われていたこともあります」

 彼女はどこか活き活きとしているように見えたが、話が逸れていることに気づいたのか、少し間をおくと仕切り直した。

「...ところで、この平方根を自然現象に解かせる方法があります」

ようやく話が見えてきた。

「どうやるんだ」

「高さ hから自由落下させた物体が、何秒で地面に到達するか分かりますか?」

「なんだって?」

「しきたりとして、空気抵抗は無視します」

 また話が見えなくなってきた。彼女は「しきたりというのは冗談ですよ」と言って、今日初めての笑顔を見せていたが、私にはいまいち笑いどころが分からなかった。

「すまない、分からないな。続けてくれ」

「地球表面上で、高さ hから落とした物体が地面に到着するまでにかかる時間は \sqrt{2h/g}と計算できます。 gは重力加速度です」

「そう言えば、昔学校でやったかもしれないな」

「ここにルートが出てきます。これを使います」

 彼女は、昔書かれた文字がうっすらと残るホワイトボードに走り書きを始めた。

「このルートの中身、つまり 2h/gがちょうど7になるような高さ hを計算できます。今回の場合は、約34.32mです。言い換えれば、34.32mの高さから物体を落とすと、約 \sqrt 7秒で地面に落下します」

「つまりストップウォッチで落下時間を計測するだけで、実質 \sqrt 7の計算を行ったことになるのか」

「計算を行ったのはあくまで自然です。私達は都合の良い実験系を用意してそれを観測したに過ぎません」

「被験体はそれを行っていると」

「はい、これよりも遥かに高度に」

「にわかには信じられんな」

 しかし、実験チームの出したレポートは、その事実を雄弁に物語っていた。被験体-00913は、与えられた初歩的な微分方程式を解析的に解くことができなかった。しかし、その方程式に適切な境界条件が与えられたとき、被験体は数値的な解を非常に精度良く求めることができた。そしてその能力は被験体の五感を完全に遮断した場合にのみ失われた。

「彼女は、与えられた方程式の解を身の回りの自然現象から見出すことができるのです」

 彼女は、被験体のことを、時折「彼女」と呼んだ。

「しかし、自然に計算させるというのは、あれだな、ファインマンの言っていた量子の計算を量子にさせるみたいな話だな」

量子コンピュータの話を持ち出すまでもありません。結局のところ、この世界で行っていることは全て物理実験なのです。古典的なコンピュータで方程式を解くというのも実験です。NOT, OR, ANDの回路を組み合わせることで、結果が方程式の解と解釈できるような実験系を組んでいるに過ぎません」

「そして、我々人類の運命は、適切な実験系を発見できるかどうかにかかっているというわけか」

「昔の映画のセリフのようですね」

 確かにそうかもしれない。実際この状況は使い古されたSF映画の設定のようだ。国際宇宙観測機構の公式発表によれば、今から約100年後、地球に巨大隕石が衝突する。そしてこれまでのところ、人類はそれを回避するための有効手段を持っていない。

「それで、目的のカオス軌道が見つかる可能性はどのくらいなんだ。計算チームのレポートにはそれらしい数字はなかったが」

「確率を計算できるほど研究が進んでいません。被験体の能力に関するいくつかの経験則が提案されている段階です。そしてそれも毎週覆っています」

「それは何も分かっていないということではないのか」

「分かったことがすぐに陳腐化するのです。正確には、そう仕向けるように研究を進めています」

「被験体の五感拡張か」

「はい、実際、被験体に原子間力顕微鏡を与えてからは、探索可能な解空間が2桁広がっています。私達の探しているカオス軌道が、この解空間に含まれている確率は10のマイナス120乗のオーダーです。前回の中間報告時に比べれば劇的な向上です」

「軌道変更に利用可能なエネルギーが増加すれば、許容されるカオス軌道の幅も広がるはずだが」

「利用可能なエネルギーは、時刻0ポイントまで線形に伸びていくと予想されています。それを考慮しても有効なカオス軌道の範囲はほとんど変わらないというのが、私達のチームの現在の見解です」

「解空間の拡大に期待するしか無いわけだな」

「はい、彼女が唯一の希望です」

 実際のところ、世界中でさまざまな対応策が検討されていたが、どれが有望かどうかなど誰にも分からなかったし、どれも等しく望みがないとも言えた。私の手元にある研究計画書によれば、近いうちに、被験体は世界中のあらゆる観測機器にアクセス可能な状態にある必要がある。それまでに、人類はこの計画に運命を委ねる覚悟をしなければならないだろう。

 特殊加工されたガラスの向こう側で、1人の少女が、鉛筆を転がして笑っている。