数学の授業中、先生がいきなり
「この答えは今はまだ分からないので、とりあえずと書くことにします」
と言い出した
バカなんじゃないかと思った
分からないものをと書いて一体何になるというのか
知りたい答えに""という別の名前をつけてフタをしただけじゃないか
それなら何か、次のテストの答案にはとでも書けば良いというのか?
バカバカしい子供だましだと、子供ながらに本気でそう思った
浅はかだったという他ない
それは関係性を見渡すための秀逸な道具だったのだ
確かにと書いたところで何も前進していないように見えるかもしれない
しかし、一旦知らないことは知らないと認めた上で名前をつけてやることで、知らないもの同士の関係性を表現できるようになるのだ
例えば、それを2倍して50を足したものが、別の何かの値になるとか
あるいは、別の何かの値からそれを引くと100になるだとか
そんな、言葉で聞いただけだと混乱してしまう関係性を、やなんかを使った式で書いてやることで、問題の全体像が俯瞰できるようになる
そうして、許される式変形を繰り返すと、丸裸になったの右辺に、その正体が顔を出すのだ
分からないものを一旦と置くことの威力が、それを初めて見た当時の私には理解できなかった
シグマを習ったときもそうだった
先生がおもむろに
「数列をからまで足したものをと書きます」
と言い出すのだ
そんなことをして一体何になるというのだろうか
いよいよ記号を使っただけのただのお遊びだとしか思えない
興味があるのは、その総和がどんな式で書けるかであり、そんな形式的な表記を導入したところで何も嬉しくないのだ
当時の私には、ここから面白そうな発展があるとは微塵も思えなかった
浅慮という他ないだろう
ここで重要だったのは、シグマの持つ性質を知るということであった
例えば、シグマには線形性があるため
と2つのシグマに分解できるし、また
と係数をシグマの外に出すことができる
最初にシグマを定義することで、数列に依らないシグマの一般的な性質を予め調べることができるのである
そして、いざ具体的な数列が与えられれば、これらの性質を利用して式変形を繰り返し、「未知の総和」を「既知の総和」に落とし込むことができるようになるのだ
振り返ってみれば、新しい何かを学ぶときは毎回そうだった
こんなことをして何が面白いのかと問い詰めたくなる話から始まって、それでも辛抱して勉強を続けていると、あるところで急に広大な世界が見えてくる
あれほど自明だった導入から、どうしてこうも非自明で興味深い結論が得られるのか不思議でたまらない
私には先見の明がないのだ
大抵の場合、その入り口で面白さを見誤る
しかし、少なくともそのことを自覚できたのは幸運と言えるだろう
私は最近、圏論の勉強を始めたのだ
久々の感覚であった
久々に、こんなことをして何が嬉しいのか全く分からないことだらけであった
しかし私には分かる
この先には、間違いなく面白い世界が広がっている