PCで苔を育てる人

自作シミュレーションゲームPraparatを作っています。 人工生命をシミュレーションするゲームです。https://www.nicovideo.jp/watch/sm41192001

【便乗記事】 物理好きから見た化学の凄さ

 

この記事は、下記のツイートに便乗したものです。

 

 

私は大学で物理を専攻していたので、どちらかと言うまでもなく物理側の人間なのですが、そんな立場からまずは一言言わせてください。

その気持ち、めっちゃわかる

私は高校生の頃から物理が好きで、化学が苦手という人間でしたので、ツイートされた方の気持ちは本当に良くわかります*1

私が特に共感したのは「非論理的」の部分で、これは私が最初に化学に触れた際に感じたことに近いです。少し言葉を補えば、化学はローカルなルールや個別の事象が並べてあるだけで、その背後にあると思われる普遍的な部分に触れることができない学問だというのが私の第一印象です。

しかし一方で、例えば、熱化学方程式とか、平衡定数の計算とかはそれなりに楽しんでやっていました。別に計算が好きだったわけではなく、身の回りの現象が定量的に分かることに魅力を感じていたのです。苦手としていたのは、無機の色や有機の反応です。まず、覚えることが多く、出てくる規則も、何かこうふわふわとしており、例外の多いゲームを覚えさせられているような気持になりました。有機の参考書にいたっては、見ていると辞書を読んでいるような感覚に陥ります。つまり、そこには個別の反応がずらっと並んでいるだけで、体系立っているようには見えなかったのです。

当時私は物理信者に軽く片足を突っ込んでいたので

「こんな色とか反応とかはなあ!
いちいち暗記してなくたって物理を使えば論理的に導き出せるんだよ!!」

と本気で思ってました。

こうして、俗に言う高二病のような症状を患ったまま、私は期待に胸を膨らませて大学に入学しました。「これで謎の暗記ゲームともおさらば、俺を散々苦しめたケト-エノール互変異性の背後にどんなからくりがあったのか暴いてやる」などと大層なことを考えていたのです。

しかし、大学に入学して本格的に大学物理の勉強を始めた私は愕然とします。物理で解き明かせる範囲が思っていたよりもめちゃくちゃ狭かったのです。

特にがっかりしたのは量子力学です。量子力学の基礎方程式であるシュレディンガー方程式を元素に適用したときに、厳密な解析解が得られるのは水素しかないのです。分子になれば難易度はさらに跳ね上がり、当然厳密解は得られません。分子同士が相互作用する化学反応ともなれば尚更です。

この辺の事情は、私の過去の記事で稚拙な物語口調で書いているので、良かったら見て頂ければと思います。

こうして一度は絶望を味わった私でしたが、やはり物理学者は天才達揃いです。「これ解けないんでどうしようもないですね笑」などと諦めたりはしません。解けないはずのその問題に果敢に挑みます。

その際、強力な武器となるのが「近似」です。近似とは、着目したい現象や系の本質を失わないように方程式などを単純化して、何とか解ける形に持っていくことです。小学校で円の面積を求めるために円周率を3.14として計算したと思いますが、円周率は実際には無限に続くので、これも近似になります。

私は、大学に入学したての頃、この近似が嫌いでした。「方程式が分かってるんだからちゃんと解けばいいじゃん」と思っていたのです。しかし、先ほど述べたように、物理において解ける問題は非常に限られています。高校物理で、解が得られる綺麗な世界しか見えていなかった私には、その周りに広がる、解の得られない広大な領域の存在を知らなかったのです。そして勉強を進めていくうちに、寧ろこの近似こそが物理の面白い部分の1つであるのだと気が付きました。それは、系と方程式を深く理解し、問題を上手に切り取るセンスが問われる部分なのです。しかし、それと同時に、一見妥当だと思われる推論によってもたらされた近似が、思わぬ問題をはらんでいる場合もあります。

今回は、化学と物理の関係という切り口でフントの第一規則にまつわる「近似がもたらした間違い」のお話をしたいと思います。

フントの第一規則は、単にフント則と言われたりもしますが、めちゃくちゃ簡単に説明すると、「電子はできるだけスピンを平行にして(スピンの向きを揃えて)軌道に入ろうとする」というもので、高校化学でも習う原子のK殻、L殻、M殻などの軌道にどのように電子が詰まっていくかを教えてくれるものです。

フント則が発表された1925年は、量子力学の黎明期に発見されていた様々な現象がまとめ上げられた時期で、1925年には行列力学が、1926年にはシュレディンガー方程式が発表されました。この頃を量子力学が完成した時期と言っている人もいるようです。

フント則はドイツの物理学者フリードリッヒ・フントが実験結果から導いた経験則でしたが、これを完成したばかりの量子力学によって説明しようと考えるのは自然な流れと言えるでしょう。1929年には、ジョン・クラーク・スレーターが量子力学に基づく説明を試みています。

このコンセプト自体はそこまで難しくありません。要は、電子のスピンの向きが揃っていない場合(反平行)と、揃っている場合(平行)とで、エネルギーの大小を比較をしてあげれば良いのです。フント則によれば、電子はできるだけスピンを平行にしようとするので、スピンが平行の方がエネルギーが低くなることが示せればひとまずはゴールです。しかし、残念なことにこれを示すのは一筋縄ではいかないのです。というのも、これを考えるためには、どうしたって1つの原子核と、電子が2つ以上の系を考える必要がありますが、その場合には多体問題となってシュレディンガー方程式をそのまま解くことができなくなるからです。

そうです。この問題に対処するためには何らかの近似を講じる必要があります。

スレーターは、いくつかの仮定を置くことで反平行の場合のエネルギーと平行の場合のエネルギーを次のように導きました。

見比べてみると、 Jがプラスなのかマイナスなのかの部分だけが異なっていることが分かります。 Jの値は正なので、 E_{平行}の方が、つまりスピンが揃った方がエネルギーが低くなることが分かります。この Jは交換エネルギーと呼ばれるもので、この結果から「フント則の起源は交換エネルギーの利得によるもの」という説明がなされました。

この結果は非常に興味深いものです。それは、フント則を上手に説明できたという以上に、大変示唆に富んでいるように思われるからです。というのも、この T V,  Kは、古典力学でも対応する概念が存在するのですが、この交換エネルギー Jだけは、量子力学にしかない概念なのです。そのため、「フント則の不思議な性質は量子的な効果によってもたらされている」という、素人にも分かりやすく魅力的な説明が可能です。

このスレーターの研究によって、「フント則が何故成り立つのか」については解決したかに思えました。しかし、実は1964年にアーネスト・デビッドソンという化学者によって、この解釈を否定する研究結果が発表されたのです。彼は、スレーターが置いたいくつかの仮定を取り除いた、より高精度な計算を行うことで、この解釈の誤りを明らかにしました。その後も、多くの研究者が計算を行っていますが、いずれもデビッドソンの解釈を支持する結果を出しています。この辺りの話については、日本語で大変良くまとまっている文献があるので、ぜひそちらを読んでみてください*2*3*4

さて、ここまでの話を簡単にまとめると次のようになります。まず、1925年にフント則が経験的に発見され、その4年後に量子力学を使ったフント則の最初の説明がスレーターによって与えられました。しかし、それから35年後にスレーターの解釈を否定する結果がデビッドソンによって発表され、その後多くの研究がデビッドソンを支持しました*5

このエピソードから私が伝えたいのは、経験則を説明する難しさです。

シュレディンガー方程式を解くことができれば、確かにミクロな世界の現象は全て解き明かせるはずです。しかし、ここまで繰り返し述べてきたように、シュレディンガー方程式が綺麗に解けるケースはほとんどありません。したがって何らかの近似を行う必要がありますが、その近似によって本質的に重要な部分を切り落としてしまう危険性もあります。そして、もう1つ厄介な事として、結局どれが真実なのか決着がつきにくいという問題があります。

このフント則については、デビッドソンに始まる一連の研究によって決着がついたかに思われます。少なくとも素人の私からすれば、この結果は疑いようのないものに思われます*6。ところが、今でも多くの教科書ではスレーターの解釈に基づいてフント則を説明しているのです。実際、私が大学生だったのは2010年代ですが、そのときも、このスレーターの解釈によるフント則の説明を受けました。1964年にはデビッドソンの研究結果が報告されていたにも関わらずです。

何故このようなことになっているのかについて、本当のところは私には分かりません。しかし、このスレーターの解釈には、私でもそう説明したくなるほどの魅力があるのです。それは、手計算で解けてしまうお手軽さに加えて、その結果の解釈のし易さにあります。実は、この計算結果はパウリの排他原理を用いた定性的な説明が可能なのです。パウリの排他原理は、大学で量子力学を学ぶ人が序盤に出会う、量子の不思議な性質の1つです。そのため、「この量子特有のパウリの排他原理によって、例えばフント則が説明できます」と面白い小話を挟むことができるのです。結局、スレーターの解釈には誤りがあるため、このパウリの排他原理を用いたフント則の説明も誤りなのですが、話し手からすれば大変使いやすいストーリーです。

ここで、藤永先生の著書「分子軌道法」から次の文を引用したいと思います。この本は、スレーターの解釈の問題点を指摘している数少ない参考書の1つです。

(スレーターの解釈の間違いを述べた後で)
「ここで得られる教訓は,簡単明快な説明を鵜呑みにするのは禁物だということである」

あるいは、シュレディンガー方程式が近似なしで解けるのであれば、このようなことにはなっていなかったかもしれません。デビッドソンの研究は、スレーターの置いたいくつかの仮定を取り払うことで、近似の精度をあげていますが、その代償として、その方程式や解法はより複雑なものとならざるを得ませんでした。こうした見通しの悪さが、デビッドソンの解釈が普及するのを妨げる一因となっているのかもしれません。

さて、「フント則」1つとってもこの有様なのです。他の化学反応などの様子は推して知るべしでしょう。

こうして量子力学の難しさが明らかになるにつれて、化学の、ひいては化学者の凄さが浮き彫りになります。

化学者は、多くの実験を繰り返すことで、そこに隠れる法則を見出します。それは、「この法則は全てを説明する」と言えるものでは決してありませんが、ある条件下での普遍性を提供するものです。

私が大学院生のとき、化学の実験家の方と共同研究をする機会が何度かありましたが、その言動には驚かされるばかりでした。

彼らは系を見ただけで、「そんなとこに窒素は入らない」とか「この結合が切れる」などと言うのです。中には「電子の軌道が見える」と言う人もいました。ともすれば、インチキ霊能力者の語るオーラの話に聞こえますが、実際に実験、計算するとそうなるのだから驚きです。

私は時々想像するのですが、もし何らかの理由で、人類が実験を行うことができない世界だったとして、ただしシュレディンガー方程式だけは神様から与えられていたとして、一体いくつの法則やルールを見つけられるのだろうと。私が辞書だと揶揄したあの参考書の、一体何ページを埋められるのだろうと考えるのです。

フント則の場合は、実験によって成り立つべき法則が分かっていて、多くの研究者がそこを目指して研究を進めた訳ですが、それでも答えが明らかになるまでには長い年月を必要としました。実験結果がなく、シュレディンガー方程式だけが知られていた世界でフント則を見つけるのは、あるいは絶望的だったかもしれません*7

 

 

 

[参考文献]

・ 小出 昭一郎 (著) 「量子力学 (I)」
・ 小出 昭一郎 (著) 「量子力学 (II)」
・ 大岩 正芳 (著) 「初等量子化学(第2版)」
・ 藤永 茂 (著) 「分子軌道法
・ Attila Szabo (著) 「新しい量子化学―電子構造の理論入門〈上〉」

 

*1:もっとも、「科学だと思えない」の部分は少し語弊があるかもしれません。カール・ポパーの言葉を借りて、科学であることの条件を反証可能性を持つことであるとするなら、化学は疑いようもなく科学であると言えます。

*2:フント則の起源は何か?(最近の研究から)

*3:ヘリウム様原子におけるフントの第一規則の起源 (解説)

*4:フント経験則の解釈 : 模型からab initioへ戦略を転換する起点 

*5:スレーターの研究は、量子力学を用いてフント則を説明する初期の試みとして、大変に重要なものです。また、スレーター行列式を始めとしてスレーターの量子力学への貢献は計り知れません。興味があればぜひ調べてみてください。

*6:ビリアル定理という定常状態で成り立つ関係式があるのですが、それを使うと、スレーターの解釈が誤りであり、デビッドソンの解釈が正しいことが定性的に示せます。

*7:見方を変えれば、この世界の一部はそのような実験が難しい世界であると言えます。超高圧下、無重力下などでの実験は、まだまだ試行回数が足りない領域です。そのような世界に対しては、全てを知るはずの方程式に活躍を期待したいところではありますが、理論駆動型の法則の発見にまだまだ多くの課題があることは、みなさんお察しの通りです。