PCで苔を育てる人

自作シミュレーションゲームPraparatを作っています。 人工生命をシミュレーションするゲームです。https://www.nicovideo.jp/watch/sm41192001

シュレーディンガー方程式を巡る物語 : 序章

この世に原理的に解くことのできない物理方程式が存在することがわかったのは、シュレディンガー方程式が誕生するよりも遥かに前のことだったが、かといって何か対策が打てるわけでもなかった。よくある話だ。100年の眠りにつくことになるその美女は、結局のところ紡ぎ車を見つけてしまうのである。

ともかく、解けば世に溢れる全ての物質の性質が明かされるというその方程式は、ごく簡単な例を除いて解くことが出来ない。いわゆる多体問題というやつであるが、科学者たちがこの問題に出くわすのは、実はこれが初めてではなかった。

1890年、フランスの数学者アンリ・ポアンカレは、3つ以上の天体の相互作用を考えると、もはやその行く末を示す解を得ることは出来ないのだと、当時の王様に報告した*1。解くのが難しいのではなく、解くことが不可能であるというこの主張は、科学者たちに暗い影を落とす。今日、三体問題、ないし多体問題と呼ばれるこの問題は、原理的に解くことのできない物理方程式の存在を世に知らしめたのである。

それから約半世紀後、そらに浮かぶ星々を見上げていた物理学者たちは、ふと、自分たちの足元に未知の世界が広がっていることに気がついた。身の回りに溢れる原子や分子は、宇宙の天体とは全く異なる物理法則で動いていたのである。そんなミクロな世界を記述する量子力学において、シュレディンガー方程式は驚きと期待をもって迎えられた。その方程式を解けば、物質の色や壊れやすさ、温まり易さや冷め易さ、良い磁石、良い電池、良い薬を作るにはどうすれば良いかなど、まさにありとあらゆる性質がわかるのである。しかし同時に、物理学者たちは嫌な予感がしていた。身の回りの物質に適用したシュレディンガー方程式は、ポアンカレが三体問題を扱ったその方程式に良く似ていたのである。シュレディンガー方程式もまた、その中に多体問題を内包していることに研究者達が気がつくまでには、そう時間はかからなかった*2

身の回りの物を構成する元素の中で、最も単純な構造を持つのは水素である。これについてはなんとか解が得られる。さて、これまでのところ118個の元素の存在が知られており、私たちはこれらで構成された物に囲まれて生活している。シュレディンガー方程式が一体どこまでの元素について解を得ることが出来るのか、少し追ってみることにしよう。

何せ118個もあるのだ、長い戦いになるかもしれない。

みな、お弁当の用意は出来ただろうか。

さて、水素は1つの原子核と1つの電子で構成された元素であり、これについては厳密解が得られることについては既に述べた。それでは次のヘリウムについて見てみよう。これは1つの原子核と2つの電子で構成されている。

残念なお知らせだが、元素を巡るこの旅はここで終わりである。お弁当を持参してもらったのに大変申し訳ないが、昼前には家に帰れそうだ。原子核と電子、合わせて3つもの役者を持ち合わせているヘリウムについては厳密解を得ることは出来ないのである。

全てがわかるのだと調子の良いことを言っておいて、蓋を開けてみれば、水素についてしか解けないときた。悪い冗談である。だいたい水素だって、空気中では1人寂しく飛んでいるわけではない。もう1つの水素とくっついて、水素分子を形成しているのだ。そうなると原子核は2つで、電子も2つ、合わせて4つであり、やはり解けなくなるのである。

目の前のコーヒーを御覧なさい。その中では10の23乗個程の水分子*3がひしめき合っているのだと言ったのはアボガドロではなかったかもしれないが、今やそのへんの高校生でも知っている。それを今更、孤立した1つの水素の性質を解き明かす方程式を発表して何になるというのだろうか。

量子力学の教科書を開けば、真空中に浮かぶ1つの電子の話から始まり、それを井戸の中に閉じ込めたり、壁にぶつけたり、縄に結びつけたりと、PTAの苦情そっちのけで、徹底的に1つの電子をこき使う話がつらつらと述べられているのは、物理学者達の性格が捻くれている所為もあるかもわからないが、そうしないと解けないという事情があるのである。そしてその電子を原子核の周りに漂わせ、はいこれが水素だよと言ったところで量子力学(上巻)は、ここ一番の盛り上がりを見せる。

ところで、アポロ11号はどのようにして月に行ったのだろうか。アポロ11号を月まで運ぶには、地球と月、そしてアポロ11号自身の間に働く万有引力について計算し、その行く末について考えなければならない*4。しかし先に述べたように3つ以上の役者が互いに相互作用するとき、その行く末を表す解を求めることは出来ないのだった。これでは到底、宇宙船の制御など出来るわけがない。月面着陸陰謀論の再来であろうか?

ちゃぶ台をひっくり返すようでいささか忍びないのだが、実は3つ以上の天体についても、それらの運動を予測することは可能なのである*5。これまで使ってきた「解けない」という言葉をより厳密に言い直すと「解析的に解けない」ということになる。そして多体問題は、「解析的には解けない」が「数値的には解ける」と一般的に表現される。

キャッチーな出だしにしたいがために、このような曖昧な表現を冒頭からここまで使ってしまったことについて私自身何も思うところがないわけではないが、これは教科書でもなければ論文でもないので、あまり責めないであげてほしい。

ところで「数値的に解く」というのは一体どういうことなのだろう。

ちょっとここで「 \displaystyle x^2 + 2x - 3 = 0」みたいな方程式を考えてみよう。

「あー、なんか中学のときにやったな、解の公式とか使うんだっけ?」

と思った人も多いと思うが、これは別に公式を使って解く必要はないのだ。要はなぞなぞである。

「二乗したやつと、2倍したやつを足して、そこから3を引いたら0になる数はな〜んだ?」

といった具合だ。試しに0でも代入してみよう、そうすると

 \displaystyle x^2 + 2x - 3 \Rightarrow 0 + 0 - 3 = -3

となって、これは0よりも小さすぎる。では、次は3でもいれてみよう。そうすると、

 \displaystyle x^2 + 2x - 3 \Rightarrow 9 + 6 - 3 = 12

となって、今度は0よりも大きくなってしまった。この0から3の間がどうも怪しい。私はこの問題を作った人の性格がそこまで悪くはないと信じたいので、今回の場合それは私であるのだが、ともかく意地の悪い答えではないと期待したい。すなわち1/2とか√2だとか \displaystyle \pi だとか、そういうのが答えだとは思えない*6。そこで次は1を代入してみよう。そうすると、

 \displaystyle x^2 + 2x - 3 \Rightarrow 1 + 2 - 3 = 0

となって、見事0になった。したがって、なぞなぞの答えは1である。これは二次方程式なので、解はもう一つあるのだが、今回はこの辺にしておこう。ともかくこれが、数値的に解くということである。

しかし実際には、こんな当てずっぽうな解き方はしない。多体問題なんて厄介な問題を人間に押し付けるような神様の性格が、そこまで良いことを期待するほど科学者はお人好しではないのだ。

この物語は、「解析的に解けない」その方程式に、なんとか解を見出そうとした人々の挑戦の歴史である。

次回「ハートリー・フォック近似」〜別たれた電子たち〜

 

 

*1:ポアンカレが主張したのは、正確には「制限三体問題を可積分系の摂動で表した際に、それが摂動パラメータに解析的に依存する第一積分を持たない」というものであり[1]、任意の質量を持つ3つの質点の三体問題について、その非可積分性が証明されたのは2011年になってからである[2]

*2:ちなみに、古典力学における多体問題が解析的に解けないという証明については、色々と文献が見つかるのだが、多体シュレティンガー方程式の非可積分性について、その証明を与えた文献は見たことがない。一時期必死に探していたのだがついに見つからず、どの文献も「解くのが困難」程度のことしか書いてないようだった。もしそのような文献の存在を知っている人がいれば教えて欲しい...

*3:コップ一杯分の水分子の数は、より正確には6×10の24乗個程度になる。

*4:NASAの技術覚書[3]

*5:アポロの軌道計算を担当したJack W. Crenshawさんのブログ[4]。残念ながら、この人の出した論文のうちネット上で無料で読めるものはほとんどなかった...

*6:この例にある方程式は有理係数の代数方程式なので、問題作成者の性格に依らず、そもそも \displaystyle \pi を解に持つことはあり得ない。