PCで苔を育てる人

自作シミュレーションゲームPraparatを作っています。 人工生命をシミュレーションするゲームです。https://www.nicovideo.jp/watch/sm41192001

【小説】プロローグ

価値観、倫理観というのは時代によって大きく変わるものであるので、現代の常識を振りかざして過去を批判するのは後出しジャンケンをしているようで気がひける。少なくとも私はされたくはない。現代の私達が正しいと信じている行いが、遠い未来の法律書では筆舌に尽くしがたい極悪非道の例として紹介されているかもしれないのだ。しかも、過去に対する視界はどんどんクリアになる。個人のつぶやきまでもが情報として残せる現代を見つめる未来人は、我々の事を友人よりも詳しく知ることができるだろう。どうせその時には自分はいないのだから、批判されようがどうされようが知ったことではないと思う向きもあるかも知れない。しかしだ、そんな悠長なことは言ってられない。未来の超技術で再審判のために生き返らせられたらどうするつもりなのだ。2回目の死をそんな形で迎えるのはごめんである。

これは、今から約80年前、つまり2020年代にネットに書き込まれた文章であるが、ご存じの通り、名も知らぬ彼の心配は杞憂に終わった。その数年後に起きた「超情報拡散現象」によって、それ以前の一切の情報が無意味となり、もはや過去のことを知ることは原理的に不可能となってしまったからである。これは、「望む情報が望む形で手に入る図書館からは何も得られない」と一般に例えられることが多いが、より厳密には次のような話である。すなわち、情報に対するデンメル時間発展方程式を2次以上の確率生成項を考慮して変形すると拡散方程式となり、係数が1より大きいときには有限時間で情報が発散してしまう。そして残念なとこに、2020年代に登場した一部のAIは、この2次の項として機能していたのである。当時すでに、AIによって無尽蔵に生成された文章や映像によって、大切な情報が埋もれてしまう可能性を指摘する声はあったが、どれも比較的楽観的なものであった。しかしその後、超情報拡散現象の存在を示す「超拡散定理」が数学的に証明されると事態は一変する。もしAIが2次の項として機能しているなら、意味のある情報を分離するのは、既に不可能となっている可能性が高かったためだ。「海にこぼしたインクを取り戻せるか?」という科学者の問いかけは、当時センセーショナルなキャッチコピーとして一般大衆にまで広く問題を提起した。しかし結局のところ情報の超拡散は起きていたのであり、もはや散っていった情報をかき集めることは出来なかった。2020年代よりも前の情報からは、「核実験によって絶滅した鼻で歩く哺乳類がいた」だの、「人類が月の上でゴルフをした」だの、どんな情報でも取り出せてしまうのだが、それが本当に起きた話なのか、はたまた誰かの妄想なのかを調べる術はない。これらが史実であるとする尤もらしい文献も大量に取り出せるし、フィクションだとするテキストや画像の証拠も欲しいだけ引っ張り出せるのだ。こうして、人類の数千年に及ぶ長い歴史は完全に闇の中となったのである。

ここまで述べてきた超情報拡散現象にまつわる一連の出来事は、AIに対する「非拡散ガイドライン」が制定された頃の情報から、確度の高いものを「CDC法(Counter-Diffusion Construction Method:逆拡散構築法)」によって再構築しているものであり、その確からしさは60%前後と言われている。冒頭の文章は、再構築の際に偶然現れたものであるが、これが人間によって書かれている可能性は30%程度と見積もられている。いずれにしても、彼にとっては良かったのかもしれない。我々の過去に対する視界は、情報の霧によって完全に断絶されているのだから。