PCで苔を育てる人

自作シミュレーションゲームPraparatを作っています。 人工生命をシミュレーションするゲームです。https://www.nicovideo.jp/watch/sm41192001

ブログなんて書きたくない

ブログなんて書きたくない。

私が好きなのはお喋りなのだ。

常日ごろ考えていることを友人と共有し、それを掘り下げ、他者がもたらす新たな視点に感動しながら、自分の考えを深めるその瞬間が好きなのである。

そのため、私は話し方に気をつける。頭の中で考えていることを、上手に相手に伝えるのは難しい。前提を共有し、順序を考え、主題がボヤけないように無駄な枝葉を取り除く必要がある。何度も頭の中でシミュレーションし、聞いている人を飽きさせないように、淀みのない話し方を推敲する。

そんなときである。

ふと文章が降りてくることがある。

それは、会話に使うには文語的過ぎるし、SNSでつぶやくにはもったいない程に良く出来た、そんな文章を思いつくことがある。

そうなるともう止められない。

メモ帳を開き、文章を書きなぐる。凡人の自分から出てきたはずのその言葉に、何か光るものがあるような気がしてくる。こんな自分でも優れた文章を残すことができるのではないかと舞い上がる。

書きたいのは、思いついたその一文だけだ。ただその一文を書きたいがために、他の文章を書き上げる。泥の中から出てきた1粒の砂金に、立派なショーケースを用意してあげたい。

しかし、私の頭の中は取っ散らかっている。とても人様に見せられたものではない。あちこちに蜘蛛の巣がはっており、読みかけの本や、読みたかった本が散乱している。

そんな四畳半の頭から、まともな文章を捻り出せというのはとうてい無理な話だ。

同じ表現の繰り返し、誤謬、誤用が散見される。それらを見つける度に辞書を引き、意味を調べ、他の言い回しを考える。偉人の言葉を引用し、空っぽのはずの文章に意味を持たせようとする。きらりと光るその一文が、浮かないように沈まないように、なんとか文を繋ぎ合わせる。前後の文章が正しいのかを確認するために、朝まで論文を漁ったこともある。時間もかかるし苦痛な作業だ。

何でこんなことをしているのかと、ふと我に返ることもあるが、せっかく手に入れたその一文をみすみす捨ててしまうだけの度胸もない。もはや文の奴隷である。

そうこうしている間に、文章は出来上がる。大事にしまっていたそれを、ハリボテのショーケースにそっと入れる。

途端、さっきまでの輝きが鈍くなっていることに気がつく。台座をちょっと変えてやる程度では元に戻りそうにない。見つけたときには、確かに光っていたはずなのに。目を凝らせば、わずかに錆びがついている。お前は金ではなかったのか。

だから書きたくなかったのだ。こんなことをしなければ、あるいはその一文はずっと光っていたはずなのに。

そうして、私は自分の書いたその文章を読むことが出来なくなる。読めば読むほどに、光が失せてしまう気がするのである。

しばらくして、蜘蛛たちが新しい餌場を見つけたと、いそいそと巣を作り始める頃。たまたま通りがかった人が、声をかけてくれることがある。

人様が気にかけてくれるほどの文章だったかと不思議に思って読み返すと、存外そんなに悪くない。

急ごしらえのショーケースに飾られたそれは、もはや光ってはいないのだが、なかなかどうして、この四畳半にもよく似合っている。